資本主義像の再構築(7) 国家と経済の結合―日本のばあい 

(4)日本のばあい
 徳川幕藩体制の日本において「我が国」は「我が藩」を意味した。日本が主権国家たることを迫られたのは、アメリカ、ロシア、フランス、イギリスの軍艦によって開国を迫られたことである。列強の開国要求に対して統一国家として対処すべきことは、佐幕派にも反幕府派にも異論はなかった。
 明治維新は、(1)列強の武力に対する統一的な国防体制としての「国家」の形成、(2)版籍奉還→天皇制国家による主権国家の形成、(3)廃藩置県による全国単一市場の形成、(4)藩札を廃止し、政府紙幣発行による通貨の統一、を一挙に実現し、近代国家形成のスタートとなった。
 日本は日清・日露戦争をとおして「資本主義と国民国家の結合」の軌道に乗った。(註)
 
(註)維新直後の世界経済と日本経済を概観しておこう[石井寛治『日本の産業革命』]。
 1882年初、リヨン株式市場の暴落に発端し米鉄道ブームの崩壊で4年間世界不況がつづいた。世界不況は、対米仏の生糸輸出の減少をとおして日本にも波及した。英独仏からの資本輸出により、米鉄道ブームが再開し、ヨーロッパの対米鉄道資材輸出も増大した。しかし、日本は外国人の直接投資を禁止していたため、ヨーロッパ資本投資の影響はなく、国内の賃金・金利低下によって景気が回復した。輸出の増加がみられたのは、生糸(対米)、こめ米(イタリアへの飢餓輸出)、銅(足尾銅山、対中国・インド・イギリス)、石炭(官営三井炭鉱、三菱高島炭鉱 対上海・香港・シンガポール=欧米の汽船・軍艦の燃料用)であった。輸出増は国内消費を拡大したが、織物輸入は増加せず(1870年代半の在来織物業の再編があったため)国産織物の増産をもたらした。1887-89年、1万錘規模の紡績会社(のちの3大紡績)が、大都市商人の株式払い込みによりあいついで設立された。鉄道は、1886-92年、14鉄道会社が開業し、私鉄の営業線は 国営鉄道を上回った。鉄道投資は、綿紡績の10倍以上の巨大資本を必要とするが、その資金調達のための近代的銀行システムがすでにできていたこと、松方デフレで社会的資金が銀行に集中していたことが、鉄道の銀行を介しての資金調達(銀行が株式担保金融)を可能にした[古典的景気循環]。日銀も鉄道株を担保とした手形割引に応じ、鉄道株暴落による銀行の破綻を防いだ。 鉱山業が 三井・三菱・住友・古川の財閥を育てた。1886.6海軍公債500万円が発行され、5%の低利であったのに、応募は3倍あったことは、国内資金の動員が国内産業の育成にとってはかなり可能な水準にあったことを示している[あとで見るように、「強兵」には外資が不可欠]。

 ●日清戦争に向けての軍拡
 明治新政府が旧幕府から引き継いだ艦隊はきわめて貧弱で、遠洋航海可能は2隻のみであった。1874年の台湾出兵でその不足を痛感し、以後本格的な海軍建設に向かう。1875年イギリスへ2隻発注(312万円 当時の国家予算六千万円)したほか横須賀造船所で年3隻ずつ建造の計画を立てた。
「富国強兵」と一口に言われるが、明治政府内には「富国」派(殖産興業派、軍拡抑制派)[松方、伊藤博文、井上馨ら政府主流派]と「強兵」派(軍拡優先派)[岩倉右大臣、陸海軍ら]の対立があった。明治14年(1881)の政変で大隈重信大蔵卿が失脚し、「富国」派の松方・井上財政となったが、陸海軍からは大軍拡の要求が出された。海軍は20年間に60隻建造(4千万円、年3隻 二百万円)と新造船所建設(5年間で300万円)。 陸軍は定員4万人の充足を要求。陸海軍合わせて82年度予算での軍事費要求は、81年度予算を700万円上回った。
 これにたいして、松方正義大蔵卿は緊縮予算を貫き、陸海軍の要求を退けた。のみならず82-84年度の3カ年緊縮予算方針を決定し、軍拡凍結の予算とした。
 ところが1882じんご壬午事変(註1)を契機に対清戦争に備えて軍拡へ転換。海軍の要求は壬午事変を経て4千万円から7千六百万円へと拡大した。松方も、たばこ税を財源に軍拡を承認せざるをえなかった。対清政策でも、 緊縮派(井上馨、松方正義)は対朝鮮不干渉を主張し、軍拡派(山県有朋、大山厳)は対清対決を覚悟した積極干渉論を主張という対立があったが、緊縮派が対朝鮮不干渉政策を貫くことはできなかった。

(註1)壬午事変:1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件

 1874台湾出兵のさいは、日清双方の海軍力はともに貧弱で対戦はなかったが、これをきっかけに 日清の双方が海軍力拡大へ向かった。1875年、日本はイギリスに2艦発注し、木造艦を毎年1隻国産。
1874年、清国は海関税の2割(年400万両)を海防基として支出すると決定。1874年以降イギリスに8隻発注。1879年、日本の強引な琉球処分により、清国はドイツに鉄甲艦2隻(定遠、鎭遠)発注し、海軍大拡張へ。
 1885年にはイギリスがロシア南下の驚異に備えるために巨文島を占領する巨文島事件が起き、日本の対朝鮮政策も転換し、対ロシアが第一となった。
 軍拡による財政危機で86予算編成できず。 緊縮派(伊藤、井上、松方)が主導権握り、軍拡方針の撤回を要求。軍が抵抗し、海軍公債の発行(1886年度より3年間で1700万円の内国債)と軍拡案の縮小で妥協した。

 日清戦争の戦費調達はどのようになされたか。
 ①「臨時軍事特別会計」に計上されたのが、陸軍省所管 1億6452万円、海軍省所管3996万円、 計2億0048万円[参考:1893年度一般会計歳出8,452万円] 
②内債を募集したが、政府はあらかじめ、日銀借入で軍事費を散布し、これを公債で回収した形になった。これは1930年代以降の日銀による赤字公債引受による戦費調達の先駆であった。

●日清戦争の勝利で金本位制へ
 公債を租税で償還する「租税公債国家」機構が資本主義的国民経済成立の前提であるが、これは独・日においても創設された。これに加えて、ドイツは工業開発(産業革命)による輸出拡大で外貨を稼ぐが、日本は第一次世界大戦時の輸入急増期を除いて、貿易は輸入超過であった。。
日本は淸国賠償金を基礎として明治30年(1897年)に金本位制度の制定を強行した(註)。その理由の一つは、これによって対外信用度を向上させ、外資導入の条件をつくることである[日銀、戦前期の外資導入、日銀サイト]。日本の外国債発行は、軍拡のほかに、鉄道・電力等のインフラ整備や国際収支の赤字補填にも必要であった。

(註)日清戦争の賠償金364百万円のうち、308百万円が軍事費として費消された。

金本位制国は信用リスク低いと見なされ、国債金利が低い。日本は1897金本位制移行で、日露戦争戦費と戦後国債整理費用をロンドンで調達できた。日本は、1900年代、ロンドンで最大の国債発行国であった。 
 
●日露戦争と外債による軍拡
 開戦を前にして、政府による戦費の見積もりは、以下のようであった。
ロシア:1903末外貨建て公債残高42億ルーブル(うち3/4がフランスからの借金)。利払いが年1.8億ルーブル。ロシアの日露戦争のための戦費予想は5.5億ルーブル~8億ルーブル。
日本:当時の日本の兵器生産能力は、小銃・機関銃は国産化していたが、主力艦と陸軍の火砲はすべて英仏独等からの輸入に依存したから、外貨が必要であった。戦費の見積もり4.5億円(註)に対して開戦時の日銀保有正貨の余力は0.52億円。戦費の1/3(1.5億円)が海外流出するとして、正貨の不足分は 0.52億円-1.5億円=▲0.98億円= 約1億円となる。これに備えて 政府は開戦直前の1903年12月ポンド建て公債2000万ポンドの募集枠を決定した。

(註)4.5億円が日本経済にとっていかに大きな金額であったかは、1903末の全国銀行預金残高7.6億円、一般会計規模2.5億円を見ればわかる。 戦費見積もりは、最終的に20億円[陸軍12.8億円 海軍2.2億円]にまで膨張した。

 ロシアが1905年5月バルチク艦隊の派遣を決定すると、政府は戦費の拡大に備えて、1905年6月高橋是清に公債2億円の追加募集を指示した。
日露戦争は、ロンドン国際金融市場における信用力の闘いでもあった[板谷敏彦『日露戦争、資金調達の闘い』新潮選書2012]。ロシアは1889年に65.5年満期、4%クーポン債をロンドンで売り出している。これにたいして、日露開戦の直後の1904年2月にベアリング商会が日本に対して提示した日本公債の発行条件は「10年満期、クーポン6%、政府手取り85%、調達金利7.06%(現代式計算法では8.23%)、担保として200万ポンドをロンドンへ預託」というきびしいもので、日本政府は断った。
 高橋是清が渡欧して外債発行の交渉に当たった。外債発行は当初困難であったが、鴨緑江渡河、九連城占領、マカロフ戦死など戦況の日本優位が伝えられると、一転してロンドンおよびNYで日本公債歓迎になり、1904年5月11日第1回ポンド建て日本公債発行は、大人気・大成功であった。ただし、日露の公債価格はロシアの方が高く、日露の公債利回りの格差(スプレッド)は、日本の戦況優位にもかかわらず、拡大した。ロシアの国力は日本よりはるかに高く評価されていたのだ。ロシア公債の利回りは、ロシアの戦況悪化にもかかわらず変わらず、日本の公債利回りが低下(公債価格は上昇)して、ロシア公債の利回りと同じになるのは、ようやく1905年3月、日本海海戦でロシア・バルチク艦隊が敗北した後である。[板谷、前掲書]

 日露ともに、それ以上の戦争継続は資金的に困難であり、アメリカの仲介で日露ポーツマス和平交渉となった。日本は樺太の南半分を獲得したが、ロシア皇帝ニコライ2世の強硬姿勢により、賠償金はあきらめた。日本の「世論」は小村寿太郎全権の譲歩に激怒、日比谷公園焼き討ち騒動となったのは、周知の通りである。
 
●金本位制による財政規律と世界恐慌によるその終焉
1905.9ポーツマス条約で終戦にこぎ着けたが、賠償金は取れず、戦争の財政負担は大きかった。国債残高が1903年3千6百万円から1906年1億5千万円へと増加。税収はこの間1億5千万円から2億8千万円と倍増したが、これが限界だった。
日本政府は、日露戦争の勝利を踏み台にさらなる軍拡の「戦後経営」へ進む。軍備、鉄道、電話網の拡充。そのために戦時国債の低利借換を図るが、これも外債に依存せざるを得なかった。1905年11月第2回4%利付き英貨国債(ロンドン、NY、パリ、ドイツで計5000万ポンド)。1907年3月5%利付き英貨国債。1910年5月 第3回4%利付き英貨国債(1,100万ポンド)。

 日露戦争から第一次世界大戦までは、イギリスを中心とする国際金本位制の全盛期で、各国はロンドン、NY、パリ等の金融市場で盛んに起債した。
 金本位制の導入は日本経済への信用を高め、日本はロンドン金融市場でくりかえし外債を発行して、日露戦争の戦費を調達できた。日露ポーツマス条約は、日清戦争と異なって、日本に賠償金はもたらさなかったが、英米に対して信用を高め、第一次世界大戦では戦時需要の恩恵を享受できた。
 金本位制と外債発行は、日本の金融・財政規律の維持に役立った。というのは、放漫財政はただちに国債価格の下落(国際金利の上昇)と国債の消化難、為替相場の下落をまねき、緊縮財政への転換が必要なることが、軍部を含めてのコンセンサスとなったからである。

 後発資本主義の独・米の工業力が19世紀末にはイギリスを追い抜き、イギリスは資本の海外投資で稼ぐ金融資本主義へと転化し、20世紀初頭にイギリス国際金本位制を軸とするパクス・ブリタニカが成立する。そのパクス・ブリタニカが、第一次世界大戦を境に性格を変える。大戦でヨーロッパ経済が戦勝国も敗戦国も消耗し尽くし、アメリカが債務国から債権国へと台頭する。パクス・ブリタニカは英米基軸の世界経済体制へと変化するが、産業的基盤の脆弱な国際通貨ポンドと国際金融面で脆弱なアメリカ経済の組み合わせという連携の未熟さが、1929年アメリカ株式バブルの破綻を世界恐慌と世界経済市場の分断にまで激発させた。
 
 先回りしていえば、1929年世界恐慌による国際金本位制の崩壊は、外債の起債を不可能にすると同時に、財政規律の歯止めをなくした。政府は長期国債を大量に発行しこれを日銀が引き受ける、という方式に転換した。軍部が天皇統帥権をふりかざして日中戦争から太平洋戦争へと突き進んだとき、戦争はもはや資本主義経済とも切断された「国家(大日本帝国)」の暴走となった。大日本帝国が、そこに殉じた軍人・政治家だけでなく多くの市民を巻き添えに崩壊した跡には、焦土と化した「国民経済」の残骸が残された。

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